連休の最終日、家族で葛西臨海公園へ。

他の行楽客と同じように水族館にも行った。


直径100メートルの観覧車にも乗った。


でも、今日の僕のメインは鳥類園ウオッチングセンター。

僕のアウトドアのフィールドは海が多いように思われているが、実は山や森も好きなのだ。
しかし、植物のことも虫のことも鳥のことも正直よくわからない。
今年は、その辺りを覚えていこうという目標を立てているので、その第一弾と言うわけだ。

まずは、パンフレットを手にして歩き出す。
確かに、いたるところに鳥がいる。
スタッフの人によると 冬のほうが探しやすいのだと言う。
確かに木々の葉は落ちているし、水鳥はじっとしている。

何から見てよいのかわからず、バードウォッチングしている人たちに紛れ込み話を聞いていると、チュウヒという鷹の仲間が自分より大きなカワウを食べていると言う。

前日にしとめたものを二日間にわたって食べているらしく、他の鳥はその死骸には手を出さないとか・・・
また、このような肉食の鳥を猛禽類というらしい。
この動物でいうライオンのような連中が多いと水鳥の数は警戒して少ないらしい。

バードウォッチングをする人たちは、珍しい小鳥などを見るのかと思ったら、やはり、強い生き物はどの分野でも人気が高いようだ。

見つけられて感激したのがジョウビタキ。
オレンジ色のかわいい鳥だ。

ムラサキシキブの実を食べていたところを発見。

たまたま見たというのと、探して見つけたというのは趣が違う。

きっと知識が増えていくと出会えるコツがわかり、出会いの確立が上がってくるのだろう。

想像はしていたが、なかなか面白い。

望遠鏡か双眼鏡が欲しいなとボソッとつぶやくと
息子の目は輝き、妻の顔は曇った。

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今年初めての釣りである。

次男の伊吹が見つけた「根魚が釣れそうな穴場」と言っていたが、正直、車で30分以内でいける穴場など、所詮たいしたことはないだろうと、あまり期待もせずに出発。

到着したのは小坪港。時刻は3時。
着いてみるとびっくり。
トイレ完備、足場が良好なファミリー向けのエリアと 小さめのテトラが積まれている。
そして、この広いエリアに釣り人は、たったの数名のみ。

素晴らしい!

「ここは、穴釣りでやってみたい」息子に言われるがままに、仕掛けを作りテトラの隙間を狙う。

開始5分。
あっさりとハゼが掛かる。まあまあのサイズだ。
期待感がいきなり膨らんでくる。

この長く続く石積みの堤防はまさしく根魚のポイントだ。
カサゴ、メバル、アイナメ・・・いったい、どれくらい出会えるのだろうか。
時間帯も夕マズメ時を狙ってきているし、伊吹は夜に備えて、ヘッドランプまで用意しているではないか。

頭の中では、どうやって調理しようと妄想も膨らんできている。


しかし、

しかし、穏やかな海と心地よい風は吹けども、アタリのひとつも来ない。
どう見ても地元の釣り師と思われると雑談しながら、この場所のポイントを探るが一向に何も起こらない。

何故だ。
釣れてもおかしくない条件と環境なのに・・・

やがて日が暮れて、地元の釣り師たちは、ちゃりんこで帰っていく。

仕方なく、伊吹に「今日は帰ろうか?」と声を掛け、撤収開始。

今年、初釣りがボウズで、落ち込んでいるのかと思いきや、「ここはいいね。次にきたら絶対釣れるよ。おれ、そんな予感がする。やっぱり俺の目に狂いはなかった〜」と熱く語っている。

おいおい、お前一匹も釣れていないぞ。

でも、この2週間、あらゆる釣り雑誌や本を読み漁り、この場所を見つけ、釣りの間は口も聞かずに集中して楽しんでいたら、満足と言うことか・・・。

荷物を車に積み込み、さて、帰ろうかと駐車場を出ると「1500円」

場が荒らされていないのは、この駐車料金のお陰かな?
小坪港、是非リベンジしてみたい。

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年末に職場の大掃除をして、年が明けて最初の大きな議題が「不必要になった書類の廃棄」について。

人は、計画的に物事を考えないと、「捨てる」とか「手放す」事が出来ない生き物だとつくづく思う。

さて、「手離(放)す」という言葉は、文字通り解釈すると「握っている手を離(放)す」ということである。
このような「からだ言葉」というものはなかなか奥が深いもので、「何かに執着してしまって手放せない」という状態は、実際の手の状態ともけっこう関連しているのである。

実際に手指や肘といったところの動きが鈍くなってくると、「いま手持ちのもの」を手放せなくなって、なかなか新しい発想に切り替えることが出来なかったりする。

ところで、「手放す」ということは、何かにじっと注意を集中していたものからフッと注意を外すという意味でもある。
何かに注意を集めるというのはさほどむずかしいことではない。
いわゆる「観察」なんていうのはこの部類だね。(洞察じゃないよ)
漠然とでもそのことを考えてさえいれば、程度の差はあれ、なんとなくは注意が集まっている。

ところが「注意を外す」となると、とたんにむずかしくなる。

嫌な先輩がいて、小言を言われたりすることを愚痴ったりしていると「そんなの気にしなきゃいいんだよ」なんていわれるが、「気にしない」ことが出来ないのが悩みになったりするでしょ。

何かを考えないようにするとき、それについて「考えない、考えない」と懸命になって「考える」ことによって逆に意識を集中してしまうのである。

別れた恋人のことを「忘れよう、忘れよう」とするけれどもいつまでも忘れられない、というのも、その典型。

スポーツや何かに集中する場面で「無心になる」ということを言われるが、「無心、無心」と考え続けて「無心」に執着してしまうという本末転倒なことはありがちだよね。

この「無心」というのは、「何にも考えない」というよりは「何にも捉われない」ということなんだろうけどね。
もう勘のいい人はうっすら気づいているかもしれないが、それは自分にとっては「ないはず(にしたい)のモノ」だからである。

「ないモノ」が人に及ぼす影響力は大きい。

「今はもうない」というモノがそこに残す何かの「跡」。

そこに人は「喪失感」を感じる。

「何かがない」という「喪失感」が生み出す「力」は良くも悪くもとても強い。

また、だからこそ手放すことに恐怖を感じてしまって、手放すということがむずかしいのかもしれない。

「子ども」も、いつか必ず手を離れていくものである。

子どもの小さいうちから、「離れる」という小さな練習を繰り返していくことで、いつかすっかり手を離れてしまうそのときの心の準備をしておくこともいいかもしれない。

また、子どもの手を離すそのたびに、親として何か「手みやげ」を少しづつ持たせてあげたいものだ。

言葉でも、何でも良いとは思うけれど・・・
子どもを育てるって、そんなことかなって最近強く思う。
高校生と小学4年の男の子を持って感じたことだ。

子どもたちが、何かもっと大きなモノを手にするために、手離すべき時がある。

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