今日もスポーツ新聞ではWBCの監督の記事が紙面を賑わしている。

星野だ。王だ。落合だ。

メダルなしに終わった星野ジャパンの後遺症である。監督の采配(さいはい)がおかしいとか、選手に根性がないとか、選手の選び方が間違っていた、などといまだにサンドバック状態だ。

敗因は一つではないと思うし、それぞれの意見にうなずける面もあるが、僕子育てとか、保育という観点からこんなことを考えている。

日本の選手が教えられてきた野球の基本が、短期決戦の国際大会という場では効果を発揮しないのではないかということである。

優勝した韓国や銀メダルのキューバ、銅の米国と 星野ジャパンとの一番の違いはなんだったか?

答えは打者のスイング。
2ストライクをとられるまで、彼らは豪快に振る。
一部の打者はボールカウントが追い込まれても、豪快に振った。

彼らのスイングを見た後では、日本の打者のスイングはおとなしく、ひ弱に見えたのは僕だけではないはずだ。

星野監督が、真っ先に敗因として挙げたのは、球審によってバラバラだったストライクゾーンである。
それは、別に日本だけの問題ではなく、どのチームも戸惑い、いらいらしていた。
韓国とキューバの決勝の九回に、韓国の若い捕手がボールのコールに抗議して、退場宣告されたのでもわかる。

ただ、お互い様なのだから、監督が敗因に挙げるのは潔くない。
問題は、日本の打者がバラバラのストライクゾーンに、全く対応できなかったことだなのだ。

この与えられた環境に適応し力を発揮できる大人に育つためにどうするか?が僕にとっては大事な問題であり、課題である。

野球を始めたころから、選手は「ボール球に手を出すな」と教えられる。

僕は子どもの頃、高めのボールを打つのが得意だった。
多少ボール気味でも手を出しヒットにしていた。
しかし、ベンチでは監督が怖い顔をして塁上にいる僕を睨んでいる。
ボールに手を出した僕を戒めているのだ。

僕は、こどもなりに「どうやったら高めのボールに手を出さないか」を考え始めた。
どうやったらヒットを打てるかよりも、監督の意向を汲んで、見当違いの発想を始めたのをよく覚えている。

少年野球でも、高校野球でも、プロに入ってからも「ボールは打つな」が基本だ。
四球を選ぶ選手は、ヒットを打つのと同様に、ときにはヒットを打つよりも称賛されるのが、日本の野球なのだ。

しかし日本以外では、「ボールは打つな」ではなく「ストライクは打て」と指導されるようである。
ストライクゾーンが多少違っても、自分がストライクだと見た球は全部打つつもりで打席に入っている。
能動的というか、積極的というか、そのあたりが日本の打者と決定的に違っていた。

「ボール球は打たない」という日本の野球に順応した、日本の指導者にとっては優等生がそろった日本代表だったのかもしれない。

野球漫画「ドカベン」に出てくる悪球打ちの名人、岩鬼みたいな型破りな選手は今の野球界にはいない。
せめて、ワンバウンドでもヒットにしてしまうイチローのようなタイプがいればよかった。

そういえば、イチローはよく言う。「四球はぼくの野球ではないですから」



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「キャー!」
日が暮れた7時過ぎの保育園に女性の悲鳴が響き渡る・・・。

当人にとっては大事件なのだろうが、僕にとっては「想定外の仕事の発生である」

事件はゴミ捨て場で起こっていた。

職員がゴミを分別していると、クモとゴキブリが一緒に出てきたというのだ・・・。

先日は、ナメクジで同様のことが起きた。

ナメクジなどは、別に不潔ではないし、人に噛みつくなんてことはない。
なにも悪さはしなくても生理的に嫌なのだ。

しかし、不思議なことにナメクジの親類みたいな、背中に殻を背負ったカタツムリはむしろ人気者になったりしている。

このようにわれわれの周囲にいて、人間に悪さをしないのに、嫌われたり、気味悪がられたりする生物を不快生物というらしい。

いもむし・けむし・かえる・ミミズ・くもなのだろうか?

クモなんて日本にいるものは素手で摑んでも大丈夫なものばかりでしょ。
悲鳴をあげる原因にもなった「アシダカグモ」なんて邪魔なくもの巣も作らないし、害虫退治をせっせとしてくれているだけなのにね〜。



保育という観点からこのことを考えると、子どもの頃にどれだけ正確に生物の印象を持ってもらうかがポイント。
しかし、生理的にだめという職員に期待するのは難しい。

そもそも、人に不気味とか・気持ち悪いといった感情を呼び起こさせる形とか動作が実はあるのだろうな。

表面がヌルヌルしている・ニョロニョロと長い・足がたくさんある・ごそごそと這ったり・・・

SF映画の怖い生物なんて全てそれらの特徴の組み合わせだよね。

でも、待てよ。
うなぎ・カニ・なまこ・たこ なんていうのは、まさしく上の条件に合うのに食べられるということになると不気味なんて感情はきえてしまうのは何故だろう。

食生活なんていうのは、国や風土によって全く違うから、不快生物も土地土地で違うのは仕方がない。

なんにしても、根拠のない不快生物が少ないほうが、それだけでも人生が楽しく、豊かになる。

怖いとか不気味なんて感情を持っていたら、行動範囲が規制される。

自然というフィールドで遊べなくなるのだ。

これは、阻止しなくてはならない。

うちの保育園のいや、日本全体の大きな課題である。




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珍しく二夜連続のネタです。(昨日の続き)
大切なことだけど、子どものこと理解しないで対応すると失敗するから、丁寧に行きまっせ。

実は、“ゴメンナサイ”という言葉は7才前の子どもには理解するのが難しいのだ。
なぜなら、それは相手の立場に立って考えないことには使えない言葉だから・・・。(わかるかな?)

心理学的には7才前の子どもは自分のことは分かっても相手の心のことまでは分からないんだよね。
だって、脳ミソがまだそういう状態なんだから。(掛け算が出来るようになるまでは・・・なんて言われています)
ちなみに 善とか悪というのも子どもには理解は難しいんですよ。

自発的な“ゴメンナサイ”はその相手の立場に立って、相手を傷つけてしまったという自覚から出てくる言葉で、その自覚がない“ゴメンナサイ”はトラブルを避け、相手の非難から逃げるための方便に過ぎないのだ。
(言い方は悪いけどね)

つまり、強制された“ゴメンナサイ”は子どもに対して本当の“ごめんなさい”とは正反対の働きかけをしているんだよね。
“ゴメンナサイ”が上手に言えるようになってしまった子は、実は、自分の身を守ることが上手になった子であり、本当の意味での優しさを失ってしまった子という言い方も出来るかもしれないのだ。

そのような子は見せかけの優しさを演じることは出来ても、本当に相手が喜ぶような言葉かけや行動ができない可能性があるんだよ。

それに対して、“ありがとう”はそのまま自分の感情の表現なのだ。
相手の立場に立つ必要もない。
だから、幼い子どもでも“ありがとう”という言葉は理解できるのだ。

だから(ゴメンナサイではなく)もっともっと子どもたちに“ありがとう”を伝えて欲しい・・・と思うわけです。

それに、素直に“ありがとう”が言える子は無理に“ゴメンナサイ”を言わせなければならないような困った行動はしないもの。

ただし、これも強制されてしまったら意味が分からなくなってしまうよ。(昨日もいったよね)

自分の感覚や感情を表現する言葉を強制してはいけないのだ。
そういうことをしているから、自分を素直に表現できない大人になってしまうのだとおもう。

“ごめんなさい”も“ありがとう”も、大人が日常的に使っていれば子どもはその姿を見て自然に学んでいくもんだよ。

他にも、“おいしい”、“きれい”、“たのしい”、“うれしい”、“かなしい”などという言葉も全く同じ。

そういう感覚や感情を表す言葉を生活の中でいっぱい使わなくっちゃ。

そうすると、子どもは言葉を覚えると共にその感覚や感情にも目覚めるよね。
それが心の世界への気づきにもつながり、結果として優しさも育っていくのだと思う。

“優しくしなさい”と怒鳴っていると、要領のよい見かけだけの優しさを演じることが得意な子に育っちゃうよ。

そして、“みんながありがとうって言ってくれない”と文句を言ったりする子どもに育ちます。

他の子に対して、“○○ちゃん、ありがとうって言わないからいけないんだ”とか、“ゴメンナサイを言わないからいけないんだ”とか言い立てる子どもはそのようにしつけられているんでしょう。

もし、自分のお子さんがそのような状態なら 、まずは“ゴメンナサイ”を強制はやめましょう。

そうでないと“優しい子”ではなく、“優しさを演じるだけの子ども”になっちゃうからね・・・・。

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