先日のクサフグ観察会で味をしめたので、今度は「アカテガニの産卵」ツアーを考えている。詳しくは後日伝えるが、背中の模様がニコチャンマークの蟹である。

クサフグもそうであったが、アカテガニも月の満ち欠けの影響を受けて産卵を行うのだ。

月やその他の天体が、地球上の生物の生命活動に及ぼす影響については、はるか古来より世界各地で語られてきたことだけれど、こういうことは「非科学的」として退けられてしまうことが実は多い。

まあ、合理化・効率化の時代である現代は、そういう合理化を妨げる発想、やアイデアは、どうしたってほとんど無意識的に排除しようとする力が働くわけで仕方がないと言えば仕方がない。

だって、伐採の時期やら収穫の時期やらを月齢に依存するなんて、そんなナイーヴで七面倒くさいことを、採用したいと思うはずがない。
いつ伐採しようが、なんかの液体にドバッと漬ければ、それだけで耐久年数が2倍になるとか、そういう発想のほうが近代的とか 科学の発展なんていわれたりする。

でも、かつて月の満ち欠けで暦を数えていた時代は、ほとんどの行事が月の満ち欠けに従って動いていたわけで、そこにはそこの理屈があったろう。

暦が太陰暦から太陽暦に変わり、月に従っていた時代から、太陽に従う時代になって、ますますからだの感覚よりも、脳による明確な意識(知識)が重要視されるようになった気がするが、この話をすると話が脱線しまくるので中止。

しかし、日本語において身体部分をしめす漢字がすべて「月」(にくづき)を持つことから分かるように、からだは昔から月に従うものであり、それは今でも変わらない。

ともかく、「月」と「水」には深い関係があるということだけれど、それがもっとも分かりやすく現われているのが潮の満ち引きなのである。

けれども当然であるが、地球上の水は海にだけあるわけではない。
川にだってあるし、空にだってあるし、地中にだってあるし、われわれ生物だって体内は水で満たされている。

それぞれがそれぞれに月の満ち欠けの影響を微妙に受けているのだ。

この当たり前のような 壮大な話は生きていると一度は頭をかすめるのではないのかな? いや、考えないといけない。

満月の晩に 狼男になるなって話は、いまでは子どもも信じないが、改めて
世の中で起こっている現象と月の満ち欠けを研究してみたいよね。

でも、自然界にいる一員として、太陽や月の影響を受けるためには、まずは月や太陽のリズムで生活しないと駄目なんだろうな。自然に抗うかのように夜型生活になっている僕らは、原点に返るためにもアカテガニの産卵を見なければならないのだ。

こんな理屈で説得される人っているのかな???


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「園長先生! 〜チャンの足にとげが刺さっっているみたいです。ちょっとみてもらえますか?」

こうみえて、僕は刺抜きが得意である。子どもを不安がらせず、痛みも感じさせずに棘を抜くことをひそかに誇りに思っていた。

しかし、最近は見えないのである、細かいものが・・・
思うように棘を抜くことが出来ない自分がいる。

このままでは いけない!!!
僕の能力は 目だけで成り立っているのではない。
そうだ触覚だ。

僕たちは料理をしているとき、たとえば煮物が煮えたかどうだか確かめようと思ったら、菜箸でつついてみたりする。
もちろんそうすれば煮物が中まで柔らかくなっているかどうか分かるからであるが、考えてみればなぜ人は直接触っているわけでもない「煮物の固さ」なんていうものを触知することができるのだろうか?

また釣りをしているときも、釣り上げてもいない魚を「キスだ」「カレイだ」なんてわかるのも何故だろうか?

僕がワークショップのアイスブレイクでやるゲームで、まず一人の人に長いロープの片端を持ってもらって、そのまましっかり目をつぶってもらう。
そうしたら誰か別の人にロープの適当なところをソーッと踏んづけてもらう。
そしてロープを持っている人は目をつぶったまま、そのロープをいろいろ動かして、だいたいどの辺りを踏んでいるか当ててもらうのだけれど、これが多くの人がかなり精確に踏まれた場所を当てることができるのだ。

僕らは手に触れているのは菜箸や釣竿やロープだけれども、実はその「触れているもの」を超えて、その先にあるものを感知している。
人は触れることで、触れること以上の感覚を触知できるのだ。

人間に、ある感覚のその先にある情報を知覚する「超感覚(メタ感覚)」とでも言うような力があるのである。

しかし、それら超感覚が成立するためにはすべて「ある条件」が必要である。それは、その人とその道具との間に馴染みの深さが必要なのだ。
それは「菜箸」であったり「釣竿」であったり・・・

そしてその馴染みの深さが深ければ深いほど 神がかり的な感覚を生み出すのである。「〜名人」なんてみんな そんな人たちでしょ。


自分の感覚を菜箸や釣竿のような神経の通わない先の世界に延長していけるか。それが名人の技である。


そうだ。たとえ僕の目が老化して見えにくくなっても、刺抜きとの馴染みを深くしていけば、今後も「刺抜き名人の園長」でいられるのだ。

そして、僕は救急箱から 机の中に「刺抜き」の移動を行ったのである。

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次男の友達7人連れて、近所のプールに遊びに行く。
2時間200円 ロッカー代金100円・・・さすが公営プール
ビキニを着たかわいいおねーさんはいないが、傍若無人な連中もいない。
いるのは黄色いTシャツを着た定年を過ぎたプール監視員。
プールサードから飛び込む子どもを見つけると一生懸命に注意してくれている。そして、それを素直に聞き入れる子どもたち。

なんだか「昭和」って感じのプールの風景である。

子どもたちは、水の中に投げ飛ばされるのが大好きである。
僕も投げ飛ばすのが好きである。
相思相愛の関係ではあるが、2時間投げ飛ばすことは出来ない。

こういうとき大人は「ちょっと休憩してくる」といってプールサイドにあがる。

子どもたちは「おにごっこしない!!」ということになって・・・
「最初はぐー じゃんけんぽん」
鬼が決まり、10秒数えそして 追いかけ始める。

スムーズだ。暗黙のルールがちゃんと存在している。

鬼ごっこやろうと決めてから、活動開始までわずか1分もかからない。
すばらしい。
大人はこんな風に物事は決まらない。

しばらく鬼ごっこの風景を眺めている。

あれ?  あれ?   あれ?
おかしい。 鬼っごっこが盛り上がっていない。

小学校4年生7人集まれば 泳ぎがうまい子も苦手な子もいる。当たり前。
しかし、泳ぎが苦手な子が鬼になってから、鬼が変わらないのだ・・・

追いかけられる緊張感がないと鬼ごっこなんてつまらない。
25メートルプールでばらばらと 浮かんでいるだけの子どもたち。

おいおい、こういうときは、泳ぎの得意なやつがわざと捕まって、遊びを盛り上げるってものだろう!! 暗黙のルールがないのだ。
それは、「いかさま」でも 「ずる」でもなく 群れで遊ぶための掟でしょう。

僕は耐え切れず、「おじさんも仲間に入れて」と宣言し、その子に加担する。
「おじさんが 引っ張っていってやるから、捕まえたい友達が見つかったら教えてくれ!」といって 猛スピード?でプールの中を引きずりまわす。
そして、運動神経のよさそうな子どもを見つけ、そこにまたまた、鬼の子どもを投げ飛ばし、無事に鬼交代。
うーん爽快。

「1.2.3.4・・・」おいおい。早く逃げろよ。
いやいや 鬼の子は 違う子どもを追いかけろよ・・・(心の中で叫ぶ)

理屈じゃないんだよね。
群れて遊ぶには、それも楽しく遊ぶには、目に見えるルールと
それ以外のルールは存在するんだよね。

このことを伝えていくためには、一緒になって遊ぶしかないな。


「午後は墓参りしてから、映画 見に行くぞ。」
息子は喜んでいるが 妻はあきれている。




映画については、また今度!!









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