数年前までは園長とはいっても「男」である僕に「おっぱい」や「母乳」に関する質問や悩みをいう母親などいなかったのだが、45歳を過ぎた頃からだろうか、僕などにその手の質問をしてくるママがちらほら現れてきた。

先日、「母乳がうまく出ないのでどうしたら良いのか? このまま卒乳させてしまった方がいいのか?」といった相談を受けた。

そのママは、どこかの育児書に3カ月たったら夜の授乳は無くしていきましょうという文章を見てそれを実践していたらしい。

カラダの自然な働きを第一に考える僕はこのように話した。

「人間って 1分間に20回呼吸してるんですよ、そして1分間に70回心臓は動いていて、女の人は月に一回生理がありますよね。これって生体のリズムで、同じようにおっぱいのリズムっていうのがあって、一日8〜10回ぐらいなんですって・・・だから3時間おきぐらいなのかな。おしっこでも ウンチでもカラダから出したいっという感覚を大切にした方がいいと思うんですよ」

「それじゃ、眠くても起きておっぱい飲ませたほうがいいんですか?」

「そういう悩みが出てきますよね、あと、寝ている赤ちゃんを起こした方がいいのかって・・・でも、寝ていても呼吸はするし、眠たくてもおしっこに起きられるように、まずは母乳を出したいって感覚を取り戻すようにすることが大切な気がしますね。」

その後も、たまった母乳を捨てる技術の話もしようとしたが、それは、他の人にバトンタッチ。

僕は女性じゃないので、本当の意味で母乳の大変さや、喜びはわからない。

でも、今、巷にあふれている母乳に関する間違った情報やピントはずれなおっぱい管理の方法に対しては、男からも発信していっていいのかなと最近思ったりしているのだ。

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離乳食を進める段階でよくみられる課題の一つに、口を閉じることが上手にできない(唇と顎を自由に使えない)というのがある。

 

そのために咀嚼・嚥下がうまくいかないで、食べ物が口の中に残ってしまうことが起こる。

 

言葉で「もぐもぐしようね」などと言ったり、目の前で見本を見せたりしても効果を出さないことも多い。

 

そんなときに、発達を促すような食事の介助方法などがないだろうかと調べたりしているのだが、なかなか「これだ!」というものが見つからない。

 

介助をするといっても、食べるための関節や筋肉を弄ってはきっと別の問題が出てくるだろう。

 

では、どうするか?

 

いま、注目しているのが「オトガイ」


 

あまり聞きなれないかもしれないが、 顎の先のとんがった部分である。

 

オトガイ神経、オトガイ動脈、オトガイ結節、オトガイ舌筋、などなどオトガイと名のつく学名は実は沢山ある。

 

もともとオトガイという言葉は日本語の古語で縄文人や弥生人は当たり前に使っていたらしい。

 

津軽弁や盛岡方言ではでは「おどげぇ」、沖縄では「ウトゥゲー」というそうだ。

 

意味は下顎の先端だけでなくアゴ全体を指す言葉で、古典で「おとがいな」というと、「おしゃべりな」という意味もあるようで、言語に関する機能の秘密も隠されているような予感もする。

 

もともと広い意味で使われていた言葉が今ではほとんど死語となり、医学用語として細々と生きているというのが現状。

 

しかし、調べてみるとこの部分は人類進化学上たいへん重要な場所。

なにしろ、サル以下すべての哺乳類、その他の動物になくて人間にだけにしかないのだ。

 

では、どうしてこのオトガイの部分が人間で突出しているのか??

 

実はこれは大変な問題で、これだけで一冊の本を書いた人もいるようだ。

 

下顎底部は発声器官を内蔵するためあまり小さくなれなかったという説が強いらしいが、専門的すぎて正直、よくわからない。

 

話を元に戻すと、このオトガイ部分は、筋が表面に出ていないために食事をする時に活用する関節や筋がないということ。

 

ってことは、介助の際に触れてもいいのかな??

 

もう少し研究してみる価値がありそうだ。


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親にとっては「つかまり立ちが出来た」とか「初めて一歩あるいた」という出来事は感激の瞬間ですね。

 

GWをあけから、保育園の乳児クラスのノートなどにも、そういった子どもの成長を喜ぶ記述が増えている。

 

一方、親というものは、子どもの発達が早ければ早いほど嬉しくなってしまう傾向があるため僕としては気がかりな場面に遭遇することがある。

 

先日、子育てグループの集まりでの出来事。

 

つかまり立ちをしている赤ちゃんに向かって「ハイハイをしないで立てたんだけど、それっていいのかな・・・」と口にしたママに向かって。

周りにいたママたちが、「ハイハイをしなくても立てて歩ければいいんじゃない?」という反応が返ってきた。

なるほど・・・親って、そんな感覚なのか・・・


しかし、その子どもの身体の使い方はかなり偏っている。

伝い歩きをしようとしているのだが、移動の際に左右差をもったまま身体を使っている(左右の股関節の荷重がアンバランス)ため、立ち方も当然、不安定。

だから、ひとり歩きはしようとはしない、不安定だということを子ども自身が判っているのだ。

子どもの発達は、生物の進化の過程を追体験するように見守ってあげなくてはいけない。

 

ヒトである以上に生き物としての発達の視点を持てば、ハイハイなしに次の段階に向かうことは問題が多い。


とりあえず、うつ伏せや四つ這いなどに導くエクササイズをやりながら、ハイハイの意味を解説。

 

おしゃべりなおっさんに変身だ。

 

すぐに結果はあらわれた。


少しのハイハイをしただけで、荷重しにくかった左へ重心移動が少しだけスムーズになった。

 

この時期の子どもは言葉で理解しないで、身体で理解するのだ。

 

安定した「初めの一歩」が迎えられるとよいのだが・・・

「ヒトの基本機能」という視点をもっと発信していかないといけませんね。


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震災後、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を耳にする機会が多い。

 

その「雨ニモマケズ」の一節に“よく見聞きし分かり そして忘れず”というのがある。

この言葉は実は奥が深い。

 

保育園で子ども達と接していると実感するのだが、子どもの感覚は外に向かって開いているので、逆に内側に向かう感覚は大人のように働いていない。

 

「おしっこ だいじょうぶ?」と聞かれてもわからない顔をしていたりするのもそんな理由からだ。

 

だから、心が苦しくて保育園に行けなくても、悔しいことがあって友達をぶってしまっても、その理由を説明することが出来ないのは、脳の発達のせいなのだ。

 

そういった「反省する」なんてことは、内側に向かう感覚が働くようになってから、段々と出来ることなのだ。

 

大人のように、すぐに「反省」なんてできない!!

一方、子どもはそのため「よく見聞き」をし、そして、すぐ忘れる。

 

でも、逆にいうとすぐ忘れてしまうからこそ、よく見聞きすることが出来るのかもしれない。

 

それに対して、大人になると逆のことが起こるのだ。

 

大人は、記憶に支配されるようになり、「よく見聞き」しなくなってしまう。


大人は、見ること、聞くことを「記憶の確認」のために使うようになり、あまりちゃんと見たり、聞いたりしていない。

 

例えば、発疹を見て「これくらいなら大丈夫!!」などと過去の事例と結びつけてしまうなんてことは、経験がマイナスに働いてしまうケースの典型である。

 

実は、大人の感覚は記憶に支配されているのである。

 

その一方で、大人は、過去の記憶とつなげて「見たり」「聞いたり」しているので、意味を理解したり、覚えることは得意になるのだ。

 

年配者の経験がものをいうなんてことは、こんな理由からだと思う。

 

でも、そのことによって「新しい体験」をすることは出来なくなってしまうのだ。

 

良い所どりは出来ないということか・・・

 

でも、僕は思う「子どものように、先入観なしに、まっさらな心で見たり、聞いたりすること」が出来たらいいな〜。

 

宮沢賢治が「よく見聞きし分かり そして忘れず」と書いたことは、実は難しいことなのだ。


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表情というと「顔」という感じがするが、「手」にも表情がある。

 

「手」実は面白い存在で、顔のように情報を発信するだけでなく、耳や鼻のように情報の受信者だけでもない。

 

受け取ると同時に、伝え、感じる能力があるのだ。

 

手こそが人間を最も代表している器官だという人もいるくらいなのである。

 

話は逸れるが、人間と動物の顔の違いについてのクイズがあった。

 

動物にあって、人間の顔に無いものはなんだ??

 

答えは「ひげ」だった。

 

脊椎動物は顔が進行方向の一番前にあり、そこに目、耳、鼻、舌といった重要な感覚器官が集まっている。

 

そして、ひげも感覚器のひとつで一本一本にそれを制御する筋肉が付いているらしい。

 

人間は二足歩行するようになったため、顔がカラダの最先端でなくなったため、探索行動のためのひげの筋肉は表情筋になったのだという。

 

他方、探索行動の役目を担ったのが「手」なのである。

 

だから、他の動物に比べ人間の手は、器用で豊かな表情を獲得したというわけだ。

 

僕が子どもたちの「手」を豊かに育てたいという理由が少しわかってきましたか??

 


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 ママにとって”おむつ替え”というのは考えている以上に大変な作業。

おむつを替えられるのが嫌だ〜と言って大泣きされたり、寝返りをするために上手におむつをつけられなかったり・・・・・

そのために、赤ちゃんにおもちゃを持たせてごまかしごまかし替えているママは多いのではないですか?

でも、それはもったいない。

おむつ替えは、一番自然にできる子どもとのタッチケアのチャンスと考えましょうよ。

1日平均7回おむつ替えをしたら、一歳の誕生日を迎えるまでに・・・7×365=2555回!

これだけ多くのふれあいの機会があるのだ。

この時間を大切に積み重ねないのはもったいないとしか言いようがない。

保育園ではおむつは「替えてもらう」ものではなく「自分で替える」ものになっていけるように、おむつ替えひとつとっても様々な配慮と意味が詰まったマニュアルがあるのだが、とりあえず家庭でも実践してもらいたいのは一つ。

「いまから おむつ替えをするよ」と声を掛けてから行ってもらいたい。

ただそれだけ。

言葉がしゃべれないからと言って赤ちゃんは何も考えていないというわけじゃない。

これから何が始まるよとちゃんと伝えてあげること・・・

さらに「おしりふくからね」「いっぱいウンチ出てるね」「足をあげて」等々感じたことや、こうして欲しいと思うことを口にしながら、この2000回を超えるおむつ替えをやったことを想像してみてください。

この積み重ねは親子関係にとって重要な意味を持ってくると思いませんか??

実際にこんなやり方を続けていくと、あら不思議、おむつを嫌がるどころか、こちらがおむつ替えをしやすいように足をあげてくれたり、腰を浮かせてくれたり(協力動作と言います)・・・

そうなったら、おむつ替えの時間は、「さっさと済ませたい面倒な時間」から「重要なコミュニケーションの時間」に変わってしまうのだ。

おむつ替えだけでなく、赤ちゃんもちゃんと気持ちがあるのだから、大人に接するときと同じように言葉で伝える習慣は大切ななんですよ。



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 昨日、人間だけに与えられた”あお向け”の姿勢は何を意味するのか??なんて話をしたが、この生まれた瞬間から両手を自由に動かせるようになるという行為は奥が深い。

一見意味が無くピクピク・モゾモゾ・バタバタとカラダを動かしているだけに見えるのだが、そのしぐさをよく観察してみると

手で顔を触ったり・・・

指しゃぶりをしたり・・・

手と手を合わせてジーっと眺めたり・・・

足先を嘗めたり・・・

皆さん見覚えがあるでしょ。

僕らは、どうしても赤ちゃんの発達を見るとき「反射(原始的反射)」に注目してしまう。

例えば、口唇探索反射(赤ちゃんの口や頬を触るとおっぱいを捜すよう動きをする)なんて典型的ですよね。

この自分の意志と関係なく動いてしまうのが原始的反射ならば、それ以外の動きにはどんな意味があるのだろう??

最近ではジェネラルムーブメント(自発的な運動)なんていわれているが、赤ちゃんが絶え間なく動いている意味はまだ解明されてはいないようだ。

でも、一つ一つの動きやしぐさに 赤ちゃんの想いがあると考えて赤ちゃんと接していきたいね。

赤ちゃんは何も出来ないのではなく、何かを訴えようとしていると・・・

そのメッセージに真剣に向き合おうとすることが、僕ら大人を育ててくれることにもなるのだ。

言葉以外のメッセージだけでコミュニケーションをとらねばならないことは大変なことに決まっている。

でも、繰り返し繰り返し、言葉以外で意思疎通を図ろうとする人間的な行為こそが、優しさや思いやりを生むのだ。

だから、子育てをした人間は豊かで深みのある人に成長できるのだと思う。

僕ら大人は、優しい気持ちにさせてくれる赤ちゃんに「ありがとう」と感謝しなければならないのである。

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 ブログを暫らくお休みしていたところ、たくさんの方から「どうしたんですか?」と声を掛けられた。

特に理由も無くサボっていただけなので、答えるのも逆に難しく、また、始めるきっかけもつかめなかったが、今日は4月1日入園式、ブログ再開には最高の日である。

さてさて、何を書こうか・・・

やはり保育園長として「保育について」を書きますか・・・

うちの保育園では入園前に全ての園児と面接を行う。

0歳児の面談は、園長、主任、保育士、栄養士と4名から様々な視点から子どもの様子を確認し、入園後の赤ちゃんの生活しやすさを保障するわけである。

0歳児の子どもが保育園で生活するのは三つのポイントがある。

ひとつは「水分をとれる」こと。
ひとつは「食事がとれる」lこと。
そして、睡眠がとれる」こと。

これが出来ればOK。

だから、この三つに関する質問は重要なのだが、その中にこんな質問がある。

「寝る時は あお向けですか?それとも うつぶせ寝ですか?」

最近は、突然死症候群の知識も広まったのか、うつ伏せで寝かせる保護者は殆どいない。

みな、仰向けで寝ているのだ。

意外と知られていないことだが、人間以外の生き物は”あお向け”で寝るなんてことはしない。

チンパンジーの赤ちゃんなどはママにしがみつく力があるから、あお向けで寝る必要が無いのだ。

人間だけに与えられた”あお向け”の姿勢は何を意味するのか??

一番の意味は、生まれた瞬間から両手を自由に動かせるようになるということだろう。

月齢4ヶ月くらいの赤ちゃんは ハンドリガードという「手と手ををあわせて、それをじ〜っとみる」という行為を見せますが、チンパンジーなどは、手ではなく、足を絡ませるそうだ。

人間とサルの違いで「二足歩行」を例に挙げる場合が多いが、それよりも「自由に動かせる手」のほうが重要な意味を持っているのかもしれない。

今日、うちの職員に「器用な手」をテーマにして「手を育てる」視点だけもつだけでも様々な保育が出来るという話をしたところである。

保育園の中の「手を育てる仕掛け」がわかりますか??





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うちの嫁さんの出身は島根県。

中国、四国地方には「児やらい」という方言がある。

「私はこやらいの最中だ」とか、「あなたはこやらいが終わった」なんていう使い方をするようだ。

まあ、標準語に訳すなら「子育て」ということになるのか??


でも、もともとこの方言は、子を「やらう」ことから来た言葉である。


「やらう」とは、追い出す、しりぞける、追い払うといった意味があるそうだ。


「しっ、しっ、あっち行け・・」


子どもを追い払うことが子育て???と少々違和感を感じてしまう。


でも、本当の意味というのは、「大人が前面に出て、引っ張るのではなく、後方にいて、子どもを駆り立て前に進ませよう」「親は子どもを早く大人の社会へ追い出して一人前にしよう」という考え方らしい。


う〜ん。まさに「やらせる保育」ではない「見守る保育」である。


最近、「子どもは親だけでなく社会で育てる」といった言葉を耳にする機会も多くなったが、実際の親の意識としては、どう考えてみても「自分の子」という意識が強くなっている。

 

僕の親父は「一人前の大人になるには、家の中では教えられないことがたくさんある。そういうのは世間が教育してくれるし、自分の責任で修養しろ」なんていっていたっけ。


世間 = みんなで子育て(
子どもは親だけでなく社会で育てる)ということなのだろう。

現在、来年度の事業計画を作成中。

保育園という場所で「みんなで子育て」をしていくためにも「児やらい」の哲学を頭に入れておくのも必要だ。 


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「スズキさん家の野菜」のスズキ家に先週長女が生まれた。

 

自宅での自然分娩。

 

スズキさんは「感激した」「感動した」という言葉を繰り返し、繰り返し言ってきた。

 

いいな〜。そして羨ましいと正直思った。

 

僕は、自分の息子たちの出産に立ち会うどころか、ほとんど協力ができなかった。

 

最近では「萌の朱雀」「殯の森」の河瀬直美監督の映画「玄牝(げんぴん)」なども話題にのぼったり、エチカの鏡」で吉村医院が好意的に紹介されたり、自然分娩に対する考え方が変わってきているのかもしれない


 

自然分娩を推奨する立場の人は、「動物には難産はない」「江戸時代にはツルツル生まれていた」と、あたかも自然なお産では難産はないかのような伝え方をしているが、僕は吉村正先生のスタンスが気に入っている。(盲信してはいないですよ)

 

こんなインタビューがあった。

 

女  性:自宅分娩でもいいかなって思うんですよ。

吉村先生:いいじゃないですか。

女  性:理解してくれる助産婦さんがいてくれたら

吉村先生:だからね、死んだっていいって思やあ、それでいいじゃないですか。

女  性:ああ、納得。なるほど、そうですね。

吉村先生:子どもが死んでもね。

女  性:うんうん。

吉村先生:死ぬのはだめ、死ぬのはイカンなんて医者が言っとるでしょ。それは医者が儲けるために言っとる。

 

自然分娩に好意的な人たちは、しばしば、自然分娩は安全であり、陣痛誘発剤などを使う現代医学によるお産のほうが危険であるなんて発言も聞かれる。

 

しかし、吉村正先生は、そのような人たちとは一線を画しており、きちんと、「死を覚悟して産むこと」と言っている。


 

吉村正先生は、具体的な数字もあげている。

 

母親は一万人にひとり、赤ちゃんは四、五百人にひとり。

それが、死ぬって、病気になるって言って大騒ぎしとる。

その間、めちゃくちゃ金使ってね。

めちゃくちゃ母親を脅かして。

いいお産ができなくなっちゃって、母親が本当の母親になる道を断っとるんだ。

めっちゃくちゃだよ、今の医者は。

 

実際今の西洋医学が出産の主流でなかったころの明治時代の1900年ごろの日本の妊産婦死亡率は、出産10万対で400人ぐらい。

 

だいたい250人に1人。

 

衛生状況などを考えれば・・・自然分娩リスクは思ったよりも低いかな??

 

でも、そんなことよりも、出産は「医療」か「自然」か?という議論よりも、出産までの不安な気持ちに寄り添える体制を福祉という立場から考えられないかと常々思っている。

月に一回くらい通院して医者以外の誰とも話さず、周産期の病気や体重制限等のリスクを語られ、不安を抱えてしまう「医療」は、いくら安全で衛生的でもベストとは思えない。

 

それよりも、出来る限り医療介入を避け、お産本来の自然なプロセスを無配慮に妨げることがないこと。また、家族や友人と赤ちゃんの人間的であたたかい出会いのプロセスで出来上がった関係の方が、今後起こりうる様々なリスクに対応できる関係になると思うのだ。

 

出産から始まる子育て期間に出来上がる人間関係は、損得を超えた純粋な人間関係である。


 

僕は、そこに注目したい。


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